母袋俊也展
2011.6.13(mon)-6.25(sat)
ギャラリーなつかb.p
略歴
2014 2009 2007 2005 2003
≪Qf-SHOH〈掌〉 90・Holz 現出の場 -浮かぶ像- 膜状性≫
会場風景/母袋俊也 "M432 Qf-SHOH 《掌》 90・Holz 1"/母袋俊也
会場風景

撮影:末正真礼生



「M432 Qf-SHOH 《掌》 90・Holz 1」
90×90cm
アクリル・油彩/板
2011年
撮影:末正真礼生

会場風景/母袋俊也 "Plandrawing・draft"/母袋俊也
プランドローイング展示風景

撮影:末正真礼生
「Plandrawing・draft」
各A3サイズ
鉛筆・ペン・色鉛筆/トレーシングペーパー・紙

<出品作品リスト>
1 M432 Qf-SHOH≪掌≫ 90・Holz-1
2 Plandrawing・draft



<Qf・SHOH《掌》90・Holz 現出の場−浮かぶ像−膜状性>展に寄せて

3か月が過ぎた。

あの心を打ち崩す黒いうねりの映像、
本来、永遠や平安に結び付く筈の水平性が、風景を築いてきていた人々の時や魂を粉砕、織り重ね、あの完璧な平坦にして有機的な風景へと化したあの映像を目に焼き付けられたあの日、いずれ人々は、その日を境に世界が変わってしまってことの契機として9・11のようにその日を3・11と呼ぶようになるだろうことを思ったのだった。
そしてその3・11の記述を頻繁に目にするようになった今も、
僕は何の躊躇もなく受け入れた9・11とは異なり3月11日を3・11とは呼べないでいる。

その日以来、その日を契機にそれぞれの専門性は、厳しくその根本と胆力を問われている。
そんな中、圧倒的な現実を前に、聖顔布を起源の一つとする絵画もまたその使命が問われている。

そもそも、その絵画は観者にとってどのようなものとして対象化され、どこに現れているものなのだろうか。

今展では画廊内に黒く塗装された仮設壁を設営、僕が絵画の特質と考える“膜状性”とその“像”、そしてその“現出する場”の現前化を試みます。

絵画は実体であり虚である両義を生きている。
時にそれは現実から乖離する絵空事ともなり、また現実・リアルを超え、実体性と超越性を確保することも可能とするのだ。
絵画、それは実体そのものではなく、空間性に働きかける像、薄い膜のようなものであり、もともと現実、リテラルの側にはないのである。

僕は、僕らの生きるこの現実・リアルな世界は、この世界と非常によく似たしかし実体を持たない、精神だけのもう一つの世界と隣接しているように感じている。
それは、真理や普遍の世界であり、黄泉の国、まだ生まれてこない人々の世界で、その世界との接近を人々は崇高とか超越と呼んできている。
そしてこの二つの世界は、ほんのわずか重なり合い、そこにすき間を生じさせている。
その場は、この二つの世界の両義を活きる場であり、そここそが像が現出する場である。像はそこにすべり込み、イコンが聖堂内の背後からの光を受け静謐に輝くように、あるいは平等院の丸窓に阿弥陀如来の像がくっきりと浮かび上がってくるように、視線をむける観者にむけてメッセージを発するのである。

そのために絵画の薄さは極めて有効なのである。

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